「シュー」と「アポ」の横顔
孵化17日目の「シュー」と16日目の「アポ」は未消化便(アワ玉がそのままの形でフンに混じる)もしているようだがよく食べて、最終的にはともに24gとなっていた。一方そろそろ遊びたそうな孵化23日目のイブは27gで安定している。
さて、文鳥などという生き物は、手の中に包めるほど小さい、何と重量25g程度に過ぎないものだから、飼ったことのない人、もしくは飼った経験はあっても幼かったり忙しかったり思い込みに身を任せ観察を怠っていたなら、性格の違い、個性にほとんど気付かずにいても不思議は無い。しかし、手乗り文鳥を飼ったら、その個性の激しさに気付かないようでは、人として情けないかもしれない。もしかしたら、人間中心の非科学的で前近代的な愚かしい思い込みに毒され、目の前の真実を読み取る現代的な人間性から来る柔軟性がないだけなのではないか、とすら思われてしまう。さらに調子に乗って言ってしまえば、文鳥の一羽一羽に存在する個性に気付かないような飼い主は、観察力が完璧に欠落した自分自身の珍しい個性に向き合って、人間社会において周囲の人に迷惑をかけないように生きていくべきではないか。・・・と、文鳥好きからは冷たい目で見られてしまいかねない(何と思われようと、痛くもかゆくも無いはずだが・・・)。
つまり、何羽も、特に手乗り文鳥と付き合ってきた人なら、一羽一羽が恐ろしいくらいに個性的なキャラクターを持って生きているこの小さな生物に、驚嘆せずにはいられないのである。何しろ、その個性は、ヒナの時から持っている先天的なものなので、同じように同じ人が育てても違ってくるのだ。このような多様な不確実性、しかも「精神的」な個別の大きな格差の存在は、まさに「人間的」であり、それを有する生き物は、もはや知的生命体と呼ぶべきなのかもしれない。25gでありながらそうなのだ。
従って、孵化2、3週間の些細な行動を観察しながら、その「鳥となり」を見定めようとするのは、乳幼児の行動から将来の人となりに思いをはせるのに似通ったものがあると言えるだろう。つまり、ほとんど外れるにしても、それは楽しい空想なのだ。
そういったわけで、一日餌づけをしながらヒナたちの性格を考えた。反応が機敏で人の顔をよく見るイブは、いかにも利発そうだ。はっきり言えば天才ではないかと思える。目も釣り目なので、祖父のキューに似た文鳥になるかもしれない。そのキューの子供の「シュー」は、ややつり加減の丸目でやたら騒々しく動き回るところを見ると、父より母のシズに似ているようだ。愛嬌のある見ていて楽しい文鳥になってくれるかもしれない。そしてやや垂れ目の「アポ」は、その外見からも祖父デコ・父ポンの特性を受け継ぎ、おっとらのんびりした、人の気持ちを和ませる文鳥になってくれるかもしれない。
いずれにせよ、大過なく元気に育って欲しいし、育てたいところだ。
コメント