おしゃべりが好きでも、議論に向かない人の特徴は2つあるように思います。
一つは、相手から反論されれば、再反論する材料がなくとも言わずにはいられない点です。つまり、話の内容よりも、黙っていると言い負かされたことになると認識し、その敗北感に耐えられないのでしょう。
もう一つは、自分の意見に対する相手の指摘には一切答えず、自分の感情的な主張を繰り返す点です。他人の話を聞く気がなければ、本来他人に議論を挑むべきではありません。そもそも、他人にもその人なりの意見があるはずですから、それを聞く気もないのに自分の意見なり要望だけを投げかけられると考えるべきではありません(日本人には議論が下手な人が多いです。例えば政治家の討論会などでも、一方的な演説が多いですが、まさにアレです)。
「ご返信のご心配は無用にお願いいたします」と書いたはずですが(この場合私は受け手)、やはり返信が来ました。そして、当然のように何ら私の指摘には答えていませんでした。まさに不毛です。
短いので全文載せても良いのですが、感情表現のため余白を設けたかったのか、改行が多いので要点のみ抜き出してみます(ほぼ全文です)。
「当方からのお願いは、里親でなくても子育ての経験があるかたがたからは、ご理解頂いておりますが・・・・・」
「里親・里子からすれば、言葉は時代と共に移り変わるものだとか、言葉狩り、という表現で簡単に済まされるものではありません。」
「(私の返信内容は)目的が正しければ、そこへ至る手段や過程は何でもかまわない(里親・里子の心の傷口を逆なでするような言葉を遣っても)という論法に聞こえ、抵抗を感じます。」
「(「文系」なら)言葉の重みと、それによって人びとに与える印象・影響ということについて、お考え頂きたいと思います。」
意味が無いので返信はしませんが、いちおう感想としては、おそらく面倒くさいのでまともに返信する人は少なかったに相違なく、言葉狩りが簡単な問題なら言語学者は無用の長物で、論法より論理による立証能力の重要性と、自分たちのこの行動による結果(自分たちが「養育士」などと呼ばれるようになる可能性)は考えないのだろう、といったところです。
実際に傷つく子どもがいるのは、実に重要な論点で、親の虐待などで傷ついた子どもは、はるかに過敏にはなるはずで、それを心配する気持ちは十分に理解できます。しかし、あえて言えば、私はこれこれの過去を背負っていますと看板を掲げて生きていけません。インターネットを含めて世の中は、いろいろな考えを持つ人がいる厳しいところなのです。そこでは、甘言を弄する人が味方とは限りませんから、その場の耳障りの良い話にのせられない大人になってくれることを期待しています。おそらく、つらい体験をしただけ、人間に対する洞察力も鋭いはずで、それが里親さんたちの努力を糧に、良い方向に生かされることを心より願っております(厳しい社会で普通に生きていけるようになってもらうために、普通の家庭で養育する意味があるものと信じている)。
とりあえず、広報氏たちの考え方に賛同される皆様には、他の里親さんたちの足を引っ張らない程度のご奮闘をお祈りしたいです。
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