凶悪な事件や災害で亡くなられた人たちや残された遺族の方たちに哀悼の意を告げる際、「ご冥福を祈ります」という言葉が頻繁に使われますが、これについては異論があるようです。
実は私も、「我が家の文鳥が亡くなりました」と言われた時、さて何と言えば良いのか、いろいろ考えた末に、結局面倒なので「ご冥福をお祈りします」と返信することにしています。いったい何を悩んだのかと言えば、特定の宗教を信心されている方の気分を害する可能性に気がついたのです。
何しろ「ご冥福を祈る」とは、死後に霊魂がさ迷う世界とされる冥土(冥途・冥府・冥界)での道行き良かれとお祈りする意味ですから、この冥土を仏教の専門用語としてのそれ、つまり地獄の通じる領域と認識すれば、あたかも地獄へ行けと催促しているといった解釈が成り立ってしまうのです。その点、まずは専門家の意見を参照いただきたいところです。
大谷大学のお坊さんのご見解
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/173.html
しかし、この解釈は仏教でも浄土真宗、それも原理的な考え方に基づくもので、おそらく過半数の日本人の感覚というか宗教感とは異質なもののように思えます。
そもそも、この際断言しますが、当の日本仏教界自体が良くも悪くも非原理的で世俗的です。これは、例えば普通に僧侶が妻帯している事実からもあまりにも明白です。普通何らかの教義に基づいた宗教において、国家が妻帯を刑罰の対象からはずしたからと言って、宗教原理に反するような妻帯をなし崩しに許してしまうはずがありません。何しろ宗教とは政治とは別個に存在するはずのものですから、それが当然なのです。ところが、日本の仏教界は、明治5年に「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」と政府が太政官布告を出すと、なぜか破戒行為が普通のことのようになってしまいました(カトリックの神父は、別に国の法律に違反するわけではありませんが、妻帯すれば当然その地位を教会から剥奪されます)。もちろん私個人は、僧侶の妻帯に反対する気はまったくありませんが、妻帯僧侶は、聖俗で言えば思い切り俗な存在としか言いようがありません。
その点、浄土真宗は元から僧侶が妻帯する珍しい宗派なので、批判には当たらないと言えるでしょうか?何も宗祖である偉人に及びもつかない凡百が、その点だけ真似をするのはどうかと思いますが、それはさておき、死=阿弥陀様による救済と考え、七七、四十九日の冥土の旅を否定するなら、やはり当然のことながら四十九日法要をするのは控えているのが、この宗派の原理原則のはずです。ところが、実際にはこの宗派にあっても大いに励行されています。何しろ日本の習慣上広く行われているので、原理原則上は否定されるべき(少なくても必要性の正統的根拠を見出せない)この法要を行わざるを得ないに相違ありませんが、それは便宜主義・ご都合主義であり、ようするに原理的ではないのは明らかです。
そうなると、世俗に合わせてに宗教上の原理原則を変えているサイドの人たちが、一般人が慣用句として用いている言葉の重箱の隅、言葉尻を捉えて、専門家面で原理原則に反するなどと批判するのは、正直片腹痛いだけではないでしょうか?
従って、私は浄土真宗的な原理は考慮しないことにしました。
そもそも、「冥土」の聞いて、それが地獄のとば口だと認識すること自体、普通の発想ではありません。例えば、「正月は冥土の旅の一里塚」といった慣用句を年寄りが口にしたとして、自分が悪逆で地獄に行くこと必定だと宣言していると聞き取る人はいないはずです。これは冥土=漠然たる死後の世界くらいに認識し、そこへ一歩一歩近づいているのだから、よく生きなければいけないといった自戒を込めた言葉だなぁ、と何となく考えるのが普通でしょう(昔は誕生日に関わりなく、正月を迎えるごとに年齢を重ねた【数え年】)。また、「冥土の土産にする」もよく耳にする言葉でしたが、この冥土を地獄と規定して、鬼への語り草とするつもりだと考える人はまずいないでしょう。きっと死後に極楽なり天国なり何なりで先に亡くなっている親しい人に会って、自分の経験したことを話すのだろうと、漠然と受け取るはずです。
つまり、冥とはご臨終瞑目した後の漠然たる死後の世界の意味以外に意識していないのが、昔から日本の一般人としてごく普通な感覚なのです。そして、その福を祈るとは、祈る者にとっては未知な死後の世界で、亡き人が(それを感じ取ることが出来るなら)幸福であって欲しいと、ごく素朴に祈る以外の何物でもあり得ません。そういった普通の言葉の解釈に、賢しらに仏教原理など持ち込むなど、浮世離れしているだけでしょう。
それでも、当然ながら他の言い回しも考えました。浄土真宗やキリスト教徒の内部で薦められているらしい「哀悼の意を表します」ではかた苦しすぎるので、「お悔やみを申し上げます」なら使いやすいと思ったのものです。しかし、浄土真宗にせよキリスト教にせよ、よく生きて神仏の元に導かれた善男善女の死を悔やんで良いのでしょうか?そこが不信心者には悩ましいところです。
もちろん、その宗派の今現在の研究者なり権威がそれを可とし、それを信じて使っている信者に他人が意見する必要は皆無だと思います。まして、私などは、そういった言葉は、どういった文句であれ誠意の問題で、他人から「お悔やみを申し上げます」と言われても、さらに祈ってくれる人の信じる神に向けた言葉であれ(言われたこちらはまるで実在を信じていない)、まるで気にならず、言葉の細かな解釈などより、何にせよ気にかけてくださるお気持ちに感謝するだけです。
しかし、自分でいろいろ意識してしまえば、「お悔やみを申し上げます」は「ご冥福を祈ります」よりも引っかかるものがある言葉なので使用しなくなりました。と言うのも、例えば闘病の限りをつくして亡くなった場合、悔やむべきことなど、亡くなった者にも看護した者にもないような気がしてならなかったからです。悔やむとは、何か心残りに思うことを示す意味の言葉に相違なく(辞書には「失敗したことや、十分にできなかったことなどを、あとから残念に思う。後悔する」とある)、細かく考えてしまえば、よほど失礼な気がしないでもないのです。
亡くなった者にも、それを見届けた者にも、私はねぎらいたい気分が強いです。まして、私の場合は亡くなった対象が文鳥ですから、飼い主が先立たれて残念な気持ちは十分に理解できても、飼い主が看取ってもらわないと困ります。従って、飼い主に対しては、残念というよりしっかり義務を果たしてえらいと褒めたい気持ちを強く持つことになります。となれば、「ご苦労様でした」か「寂しくなりますね」くらいしか、本来言える言葉がありません。ところが、それらは特別に「弔意」を表す挨拶ではないですし、まして不慮の事故に際して「ご苦労様でした」では嫌味になりかねません。また、寂しいに決まっているのに、それをわざわざ口にするのは、個人的にわざとらしく思えてしまうことも多いです。
そのようにあれこれ考えた挙句、よほど学問的に細かに考える人でない限りは、宗教上多少気になっても、慣用句として聞き流すか、意を汲んでくれるものと考え、すべて「ご冥福をお祈りします」と表現することにしました。
それがどういったもので、あるのかないのか知るはずもありませんが、その死後の世界なるもの、もしくは神仏のお側なりに旅立っていった者が、それぞれが望んだ望ましい方向に向かうことを、他人ながらに勝手に祈念する意味と考えるなら、むしろ「ご冥福をお祈りします」は、宗教を問わず何にでも適用出来るはずの言葉だと信じます。
亡くなった人やその遺族、人間とその他の生き物を同列にしては怒られそうですが、亡くなった文鳥とその飼い主、それぞれの望む方向にあって欲しいと、ご冥福を祈ります。
コメント