終身刑の導入が優先

 死刑廃止論を唱える人の中に、法律で復讐(仇討ち)を認めて良いのかと真顔で主張する人が、驚くほどたくさんいます。昨今では青山学院大学で教鞭をとってるという某女史が、山口県光市の18歳だった男に対する死刑判決に対して、「国は復讐代行業になった感じ」とブログで否定的なご見解を示された(書きなぐった)ようですが、個人の復讐を代行しない国家などあり得るでしょうか?
 この女史のような人々は、例えば古代のハンムラビ法典のような復讐法を、野蛮なものに感じているように思われますが、それはあまりにも単純な誤解です。確かに、国家による刑罰とは、被害者もしくは被害者の関係者個人による応報(私刑・リンチ)を否定するものには相違ありません。しかし、それは「私」の代わりに仇を討つという役割を国家が担うという暗黙の大前提があって初めて成り立ちうるものです。犯罪行為を犯したものを、個人的に裁けず、国家なり集団も裁いてくれなければ、世の中は無理が通れば道理が引っ込む弱肉強食の修羅世界になってしまいます。国家なるものが、公正な法律に基づいて加害者に制裁を加えてくれる、つまりは代理に復讐なり仇討ちをしてくれるからこそ、私刑の連鎖を抑えることが出来るのです。
 ハンムラビ法典の「目には目を、歯に歯を」という有名なフレーズを聞けば、現代の文化人は何と野蛮な古代の遺物といった印象を持つかもしれません。しかし、本来は、目を失明させられたからと言って、その加害者の生命を奪うような過剰な復讐を禁じたのが、この法律の主旨です。つまり、与えた被害に見合った制裁を加える、いわば罪刑の均衡を目指した条文であって、これは現代の刑法にも通じるはなはだ公正で合理的な内容なのです。現在は、復讐の実行を国家の法律に任せ、量刑という名で復讐方法を客観的に細かく裏付ける法体系をもつ罪刑法定主義が採用されていますが、これは基本的にハンムラビ法典と同一線上の存在と見なすべきで、むしろ私刑を禁じた今の方が、国家権力は強大で復讐に果たす役割は絶対的なものとなっていると見なすべきです。
 青学で学問を教えている極めて優秀なはずの人物でも、義務教育もまともに受けていないような人物でも、法律にしろその背負っている歴史について無頓着な人は多いでしょう。何しろそのようなものは知らなくとも、現在の民主主義で法治国家の日本で生活するのに支障は無いからです。しかし、少し新聞を読むなりニュースを聞くだけでも、現在の裁判官が述べる判決の際に、遺族感情について言及するくだりがあることくらいは知ることが出来るはずです。その遺族感情云々は、裁判官が遺族に対してリップサービスをしているわけではなく、国家による罪科が遺族の代理行為である側面を有していることを、明確に示しているものだという事くらいは、近く裁判員制度など実施しようとしている国の一員として理解していて損はないと思います。

 肉親や自分が愛した人を奪われた遺族が、その報復を求めるのは当たり前で、これは自己防衛に近い自然な感情だと私は思います。自分が愛する人なら自己と密接不可分な存在のはずで、その自分の一部に対する攻撃を自身への攻撃として認識するのは、極めて人間として当然な感情でしょう。
 しかし、犯人の命を奪ったところで被害者は生き返ってくれませんから、遺族の誰もが加害者の死刑を望むとは限りません。私個人は、人を殺すような償い得ない罪を起こせば、遺族がどのように考えようと、加害者自身が人間としての尊厳を守るのであれば、とりあえず死んでわびる(わびようがないので死ぬ)しかないと考えますが、無理にでも生かして反省の日々を送らせるべきとの考え方もあるように思います。何しろ、腹を切って死なず、出家遁世して人里離れた山の中で、死ぬまで読経三昧で過ごすのも、責任の取り方として厳しいもののはずだからです。
 凶悪な犯罪者であれ、生きている者の命を奪うのは気分の良いものではないですし、自殺などそれが何であれ自分の責務からの逃避と見なすことも出来るわけで、そのような行為は許されないとする宗教もあるでしょうし、その考え方も納得できるものです。つまり、もし愛する人を奪った凶悪犯人に対してすら、死刑を望まない人も多いはずです。しかし、そうした死刑を望まない人々であっても、その犯人が、数年して社会に戻り、また犯罪を起こすことは望まないでしょうし、過去の自分の行為を忘れて、生まれ変わって幸福な一生を送ろうとすることまで許せるでしょうか?おそらく大多数は、死刑にならなかった加害者に、彼が墓場に入るまで己の罪を背負って生きて欲しいと思うのではないでしょうか。具体的には、山奥で修行し続けるか、刑務所の中で生涯を過ごすことをです。
 ところが、今の日本の法体系では、死刑の次に重い罪は無期懲役で、実際には10年も経てば出所してしまい、それで罪をあがなったことになってしまいます。これでは、大多数の被害者遺族は納得がいかないでしょう。
 死刑に反対するのは一つの考え方ですが、それには終身刑を用意し、遺族感情が死刑ではなく終身刑を望むような社会的合意を醸成する必要があります。そうでなければ、法が裁かないのなら私刑を下すといったことが生じ、法治国家の根本が揺らいでしまうでしょう。理念的な死刑廃止など叫ぶ暇があるなら、まずは終身刑の導入を求めたいところです。それは、受刑者の増加による経費や施設(刑務所)の問題などをどのように克服できるか、より具体的な現実的議論を必要とするでしょうが、結局は死刑廃止に通じる一歩になるのです。死刑廃止論者には、言葉遊びではなく、現実を見つめて欲しいところです。

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