議論は持論で(2)

他人、もしくは自己検証のために仮定したもう一人の自分との議論において、必要となるのは根拠となる事実と、その事実をつなげる論理性です。でたらめな情報を根拠にしては正しいはずの結論に達することは出来ず、論理性、つまり思い込みや飛躍がなく話の筋道がしっかりしていなければ、相手を納得させることは出来ません。
  そこで根拠となる事実を見つけるために調べ、場合によっては他人に尋ねることにもなるでしょう。ただ、それが、例えば文鳥の飼育に関するような、天下国家の話に比べればごく私的なテーマであっても、安易に考えるべきではありません。少なくとも、自分が尋ねる相手が、どのような意見・見解を持っているかを調べもせずに、「教えてくれ」と迫るなど、無鉄砲かつ無礼なこの上ない行動であり、自分の意見・見解も持たず、他人のそれも尊重できない人の態度です。
  そもそも、自分で調べて学べるものは学び、考えるべきは考え、行き詰った末に他人の意見を求めるのが、学問の本質です。学校で教科書に載っている内容を、調べもせずに教師に軽々しく「教えてください」と質問をするのは、子どものお勉強(手習い)に過ぎず、本来の学問(自分で考えなければならない)とは呼べません。
  これを昔の人の言葉(『論語』)で表現すれば、「憤せずんば啓せず。ヒ(手偏に非)せずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以って反らざれば、すなわち復せざるなり」となります。何のことか、解説されなければ私も分かりませんが、ようするに、孔子という多くの弟子を持った大昔の人生の達人は、「考えあぐねて行き詰まり今にも爆発しそうでなければ、手助けしない。分かっていながら言葉が出てこない様子でなければ、その言葉を口にしない。四隅ある机の一隅だけ教えれば、他の三つの隅を自分で見つけられるようでなければ、二度とは教えない。」といった態度で、弟子を導いたと言うのです。この話は「啓発」という言葉の語源になりますが、ようするに自分で懸命になって答えを探さない限り、教えられることなど何も無い、教えるだけ無駄だと言っているのです。
  「せんせ~い!おしえてくださ~い!」などと、10秒前の授業で説明したばかりのことを質問してくるような生徒は(いるでしょう!クラスに1人は!)、孔子なら即破門です。教えてもらうというのは、軽々しく出来ることではないのです。教科書にあるような内容など自分で調べれば済むことが多いはずです。一方教科書にないようなことは…、これは答えが無いことが多く自分で見つけるしかないので、絶対的な答えを教えてもらえると考える方が間違いなのです。つまり、教えるとは、その人自身が考える際の手助けをすることに他ならず、考える気の無い者には無意味なだけなのです。
 
  他人に教えを乞うというのは、実に大変なことです。自分で出来る限りのことをすべてやりつくし、さらに悶々と考えても打開出来ない時、きっと何がしかのヒントを与えてくれるであろうと見定めた人間に対して、ようやく出来る行為なのです。もちろん、相手はその人に教えてやる義務など何も無いはずですから、「教えてください」などと、教えてもらうのが当然のような言い回しを用いることは出来ません。「ご教示いただければ幸いです」とか、「お気づきの点があればご指摘いただければ幸いです」といった回りくどい言い回しになるしかないわけです。
  高校までの学校で生徒として、教師を辞書代わりに気安く「教えてくれ」と言うのは、子どもにだけ、学校の中だけで許される甘えた行為に過ぎません。基本的に匿名で行動できるインターネットでは、未成年者も大人と見なされるのを覚悟しなければなりません。女子高生が、おじさんたちが居酒屋で飲んでいるところに乱入すれば、まあ、おじさんたちの方は喜ぶでしょうが、普通女子高生がそのような酔狂なことはしないでしょう?それが、インターネットの掲示板では簡単にやらかすわけです。しかし、冷静に考えれば、それは一種の勘違いだと分かるのではないでしょうか。やはり、実社会同様に近づくべきではないです。ボーダーレスに情報が飛び交う世界ですから、あくまでも自分を大切に、背伸びをせずに、まず自分なりに学びつくして欲しいところです。
 
  以上のようなことを、他愛の無い書き込みをきっかけに考えてみたのですが、「教えてください!」と言われると、「覚悟はいいんだろうな!」と言いたくなるだけで、掲示板で他人に教えている意識は個人的には皆無です。近所の世話焼きおばさんの感覚なので、「これはどういうことでしょう?」と聞かれたら、知っている範囲でペラペラ答えているに過ぎません。もし、飼育方法『文鳥団地』流の家元(なんじゃそれは)として君臨し、弟子なり信者に教えるつもりなら、孔子を見習って安易には言えなくなるだろうと思います。もっとも、孔子は無関係に、たいした内容でないのを悟らせないために、「秘儀じゃ!」と謎めかすのは、常套手段ではあるのですが。
  飼育と言うのは教え教えられるのは、高校までの授業のような基本的なことくらいだと思います。そこで、基本的なことは飼育ページや飼育書に書いたつもりなので、そこから自分で学んで欲しいところです。もちろん経験と以前の飼育書などを元に、自分なりに何度も何度も反芻して飼育方法を考えてきたので(他人の一方的な意見を他山の石にしたことはあっても、議論になった記憶は無い)、生半可な人と議論しても、そう簡単に変更を余儀なくされることはないだろうとは思っています。教えてもらうのではなく、開示されている情報から必要なことを学びとって、さらに考えを深め、それなりに自分流の意見・見解が固まった人から、議論を求められたら、小躍りして喜ぶだろうと思います。
  しかし、「獣医さんが言った」とか「小鳥屋さんが言った」などという、何の価値も無い枕詞は禁止です。誰が何を言おうと、それを元に自分で一所懸命検証して、自分の意見・見解としない限り、対等に議論は出来ません。主観的にその個人を尊敬するのは勝手ですが、少し調べれば、獣医さんにも小鳥屋さんにも意見はいろいろであるのは分かるはずで、いろいろである以上、その意見・見解の発信源の肩書きなど無意味だからです。伝聞も参考にして良いですが(学問的にはあまり薦められませんが・・・)ではなく、自分の意見・見解としなければなりません。その際はその伝聞が事実か、論理として整合性があるか、を確認しなければなりません。
  論語の中でついでに思い出したフレーズがあるので、最後に紹介しましょう。「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」、「何か一つのことを知っている人よりも、その一つのことを好んでする人の方が優れていて、さらにその一つの事を楽しめる人は一段と優っている」といった意味です。これを文鳥の日常的な飼育に当てはめるなら、飼育方法を知識としてマニュアルで知っている人より、好きで調べている人の方が理解が深く、さらに日々文鳥と遊ぶのを楽しんでいる人の方が文鳥に通じている、となるのではないでしょうか。得体の知れぬ知識を集めて、「~さんから聞いた」などと振り回すよりも、その知識も踏まえながら、文鳥との付き合いの中から楽しんで学んでいく態度でありたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました