議論は持論で(1)

 最近、「自分の意見だけでなく他人の意見と組み合わされてはいかがでしょうか?」という言葉を、自分の管理する掲示板で頂きました。しかし、まことに遺憾ながら、簡単に妥協できるようなことを文字化するほど無責任ではないので、ご要望には沿いかね、ただ単に、若いと言うのは大胆かつ恥ずかしいものだと言う感慨しか持ちませんでした。
 事の起こりは、学生と称する人物(表現から受ける印象は成績の良い高校生)による、ヒナが孵化したがどうすべきか「教えていただきたいです」という投稿でした。管理人である私は、これに返信したわけですが、それに続いて「図書館のパソコンで」閲覧しているそうなので、やはり学生なり生徒と推定される人物(表現から受ける印象は普通の中学生)が、「(免疫力をつけるため)生まれて20日間は親」鳥が育てた方が良いとする、どこかの「信頼のある店」の店員の話を紹介しました。そこで私は、再度、孵化20日も経過したら、人間を怖がり餌付けがスムーズに出来ないという事実を指摘し、くどいくらいに説明したわけです。しかし、不幸なことに、ご両人はパソコンで掲示板に思い付きを書き込めても、その掲示板の元であるホームページから情報を引き出す環境も能力も無く、どうやら返信のくどい説明を、私が自分自身の説に固執した強情からくるものと判断したようで、件の書き込みとなったわけです。
 しかし、私が16日彼が20日だから、間を取って18日で手を打ちましょう!で済むものではないことくらいは、自家繁殖したヒナを手乗りとして育てたことがあれば、小学生でも知っていることです。ヒナの器官の成長スピードはほとんど決まっていて、それはとても急激なので、1日で大きく事情が変わってくるものなのです。経験者としては、孵化20日などとする人は、その状況で親鳥から引き継いだ際にどういったことが起きるのか知っているとは信じられませんし、また、机上の学問だけで話したとしても、ほとんどすべての飼育書が生後2週間とすることすら知らない不勉強と、生半可な知識を初心者に語っていると指弾せねばなりません。
 つまり、この場合、問題は知っているか知らないかの違いでしかなく、私は当然ながら十二分に知っていて、なおかつ、すべてのスレッドに必ずコメントする管理人なので、教えろと言われたら(教えてやる義務など欠片もありませんが)教えるしかなかっただけのことです。
 このように書いていくと、その若すぎる両人に憤慨しているように思われるかもしれませんが、子どもどころか成人しても似たような態度の者などいくらもいるので、子どもの所業なら、腹を立てるより笑ってしまうだけです。ただ、これから常識を身につける年頃ですから、見ず知らずの人間に安易にものを尋ねることの可否、曲がりなりにも「教え」を受けながら捨て台詞を残すことの可否、また、責任ある意見と真の妥協とは如何なるものか、伝聞情報の危険性と自分で検証する重要性、そういった面を、安易に書き込みするより考えていって欲しいとは思ったのでした。

 さて、先の若いらしい人の書き込みのように、自分が有する何らかの意見・見解というものが、他人の意見・見解に安易に妥協して組み合わせるべきだ、とする発想はどこから来るのでしょうか。私は、これが、ケータイなどと言うお手軽で、現状では情報端末として未熟なだけの存在(モニターが小さすぎて情報量に制約がでるので問題外、技術革新が必須)を、玩具としてあてがわれた世代を中心に、そのおもちゃを使った友だちとの内輪の会話と、不特定多数を意識した意見表明との区別が付きにくくなった結果と見なしています。
 例えば、昨今、歌手の幸田某が「35歳過ぎたら羊水が腐る」などとラジオで公言し問題となりましたが、これなどは、親しい間での会話と、不特定多数の視聴者にも発信される意見との区別が付いていない稚拙さを露呈したものと言えるでしょう。
 そもそも、我が国の象徴とされるご皇室において、皇太子妃殿下は35歳を過ぎて愛子内親王様という子宝に恵まれました。また、ご皇室では久々の男子でいらっしゃる悠仁親王様を、秋篠宮妃殿下がご出産になったのは40歳目前のことのはずで、そのご誕生を多くの国民が喜んでから、1年数ヶ月しか経過していません。これらご皇室の慶事について、エロカッコイイなどと言われて一部の若者のカリスマらしい歌手も耳にしていたはずで、もしそれを自分で考える習慣があれば、例え35歳以上の高齢出産は、それ以下よりも一般的にリスクが高まるといった情報を小耳に挟んでいても、現在では高齢出産も当たり前になっているくらいの結論は得られたはずです。そこから、少し考えを進めていれば、「羊水が腐る」などという意味不明の発言はしなかったと思います。つまり、エロカッコイイかは別にして、歌のお上手な幸田某は、どうしようもないくらいに世事に疎く驚くほど無知であったか、入った情報を自分の頭で整理してから話す習慣がなかったために、不特定多数に不快感を与え、満天下に恥をさらすことになってしまったと言えるでしょう。
 おしゃべりも芸のうちですが、一対一のその場だけの会話と、不特定多数が目にしたり耳にする際の意見は、おのずと重みが違うことを認識しなければならなかったのです。そして、不特定多数に語りかけたければ、口数を増やす前に自分の中の知識を増やし、情報をしっかり考えて、話す中身の重量を増す努力を普段から心がけるべきでした。突然切り替えるのは難しいので、普段から心がけないといけないのですが、普段は、実体すら疑わしいようなメル友などに、くだらないだけの軽薄短小な内容を、気色の悪い顔文字を混じえ、その場のノリだけの脊髄反射で送信しあっているだけでは、身に付くはずがありません。一行メールなど会話以外の何物でもなく、前後の脈絡も考えず、その場のノリでテキトーに出来てしまうでしょう。結果、公私の区別など付かなくなり、幸田某の二の舞を演じることになりかねません。

 不特定多数に対する発言をするには、普段からしっかり自分の意見を検証しなければいけないとすれば、その検証する習慣はどうすれば身に付くものでしょうか。ケータイのメール交換など全面禁止しても、たいした問題は無いと個人的には思いますが(ケータイを自由を奪う電波の鎖と見ている)、そういった後ろ向きな話は実現性が無いので、それとは別に議論する機会を多く持たせるべきだと思います。自分の意見・見解をしっかりと定め、他人の意見・見解と真剣に競いあう経験をしているなら、少なくとも、お互いの意見を単純に組み合わせて済むなどと、安易に考えられなくなるはずです。
 もっとも、日本人は議論下手と言われています。これは、何となくその場を丸く治めて、狭い社会の協調性を維持することを優先させてきた影響かもしれません。何しろ、小さくて均質な共同体社会の中では、その社会の常識外の意見など芽生えにくいので、個々に持つ意見・見解に大きな違いが無く、議論をしなくとも問題はおきにくかったのでしょう。しかし、現在の日本は状況が大きく違っています。自由民主主義の社会で個人主義が深まり、情報化社会の恩恵で、多くの情報を元に個人が自由に物を考え、価値観も実に多様になっています。つまり、他の人間とはかなり違った意見・見解に到達するのも珍しくない社会に我々は存在しているのです。
 その個性的な意見・見解が、議論を避ける因習の元で、表に出ないで自分の中だけに止まり続ければ、不幸と言うより危険です。自分が学び考えてきた意見・見解と、他人が学び考えてきた意見・見解とを、論理的に競い合わなければ、どうして他人の意見を真摯に聞いたり、自分の偏った面にも気づいたり出来るでしょうか。結局、自分だけのせまい知見で得た結論を抱えたまま自分の世界に引きこもり、さらには、その勝手気ままな結論で、他人に危害を加えるようになるかもしれません。
 「和を以って尊しとなす」というのは、事なかれ主義でも、全体主義でもないはずです。現代社会の和は、個人としての他を尊重し、自分も尊重されることにありますが、議論をせずに、自分の意見・見解を相手に理解させ、また、相手の意見・見解を理解することなど出来ないのです。我々はテレパシーを使えませんし、多様な意見をすべて目を見て察することなど不可能なのです。
 そもそも、議論とは子どもの口げんかとは違い、本来それによって仲違いすべき性質のものではありません。本来、議論をすることは、相互の理解のために必要な行為と認識すべきだと思います。この点で、高校で教わった人もいるかもしれませんが、アウフヘーベンという言葉を思い出したいところです。日本語では「止揚」と訳されますが、対立する二つの考え方(一方は旧く一方が新しい)を徹底的に議論することで、新たな考え方に到達すると言った意味としても用いられます。このアウフヘーベンはテキトーに足して二で割るとか「組み合わせる」のとはかなり違います。お互いの考え方に矛盾点が無いか、議論により洗い出すことで、おのずから新しい考え方が生まれているというものです。
 この哲学用語のウフヘーベンとは、四文字熟語の「温故知新」に通じると私は理解していますが、ようするに、自分の意見・見解、筋道が立てば理論といえるものを、対立するそれと比べない限り、向上は見込めないと言うわけです。そのような議論の本質を理解していれば、論敵は自分の師として見なすしかなくなり、悪感情など抱くのは見当違いと言わねばなりません。どのように激しい議論であっても、実は自分の考え方を深くするプロセスに過ぎないのですから、議論に勝った負けたは本来あり得ないのです。もしかしたら、議論が自分の優勢のうちに終われば、凱旋将軍のように勝ち誇りたくもなってしまうかもしれませんが、それは陳腐な虚栄心によるまやかしと言えるでしょう。
 つまり、自分で考え抜いた理論を持っていて、それをさらに高めたいと思うのであれば、議論を歓迎するしかないのが、論理的帰結です。一方で、いかに自分の意見・見解が論理的に破綻しても自説を曲げなかったり、反対に何の矛盾も無いにもかかわらず安易に妥協するような人は、議論をする資格が無いのも、また論理的帰結と言えるでしょう。自分自身の意見・見解を向上する気もないのに、感情的な脊髄反射で、他人に余計な手間を取らせるくらいなら、特定の知り合いと会話するか壁に向かって説法しているべきなのです。
 感情を交えずに他人と議論するのは、なかなか難しいものですから、学校教育に取り入れるなり意識的に若いうちから習慣化させた方が良いと私は思っています(そういった動きがあると仄聞したことがある)。議論のため、他人からの批判に耐えるような自分の意見・見解を構築するにはどうしたら良いか考えるようになれば、自分の意見・見解を批判された場合のシミュレーションを自分自身の頭の中で行い、弱点を改良して議論の場に出なければならなくなるでしょう。そしてこのような、絶えず自問自答する習慣さえ出来れば、偏り過ぎた考え方・見解に陥りにくくなるでしょうし、軽率すぎる発言も減らすことが出来るはずです。

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