文鳥ジェンダーフリーなのだ

​オモチ鉄壁のディフェンス​
 これではどうにもならないので、かわいそうだが強制排除し、無精卵を取り除き、2羽の桜文鳥ヒナを育てやすいようにした。
 メスが巣の中で育雛、オスは巣の外で見張り、そうしたステレオタイプは、文鳥社会でも通用しないのである。
 さて、私は論理性を重視しようと心掛けているので、人も物も「使える」か「使えない」かで判断する合理主義者の傾向が強い(人間社会にとって有用か無用か、自分にとってだけ有用か無用か、合理主義にもいろいろある点には留意が必要)。したがって、性差や人種の違いなど頓着しない。何であれ、その人の言うことすることが全て、であり、外見などどうでも良い。
 ところで、かくも性差別とは無縁、つまり論理的な帰結として「ジェンダーフリー」となっているらしい私は、今はやりの性的多様性について、どのように考えるべきであろうか?異性より同性に性的な魅力を感じる(レズ・ゲイ)、どちらにも感じる(バイセクシャル)・・・・・・、そんなもの、個人の嗜好の問題で知ったことではない、となってしまう。ご近所なり仕事仲間の性的嗜好など、気にする必要はなく、また、なぜ知らしめねばならないのであろうか?
 LGBTの最後のTはトランスジェンダー、日本語では性同一性障害などと呼ばれ、身体的な性と気持ちの上での性が合致しない人を指すのだが・・・、・・・そもそも、なぜ体の性と気持ちの性が合致しなければならないのだろうか?男の子に生まれたけれど、女の子的なふるまいをしたいとか何とか・・・、!、したければすれば良いし、昔からそのような子は学年に1人くらいはいたではないか。そもそも、男の子的とか女の子的などという性差を意識した区分をしているその感覚は、ジェンダーフリーとは相いれないが、そのあたりの当事者たちの問題意識はどうなっているのだろうか?トランスジェンダーとは、性による違いを強烈に意識しなければ起こり得ず、性差を否定するジェンダーフリーとは相容れないはずである。
 その真実を理解した上で、冷静に、自分の生物学的な性について、考え、自分の古臭い文化的な性差別意識と向き合うべきではなかろうか。ご覧、文鳥のオモチくんを。子煩悩は妻の数層倍だ。母性本能の体現者ではないか。
 なお、オスのヒナください!とか何人にも言われて、いい加減頭にきている。オスの方が噛み癖がひどくなるようなことも起こりやすく、ヒナ段階で性別がわからないという初歩的な知識もない初心者にとっては、よほどメスのほうが付き合いやすい可能性が高いだろう。
 卵を産むとか産まないとか、ごく単純な偏頗な理由で、選択できない事実も踏まえず、オスを推奨するようなことを吹聴した、愚かな文鳥性差別論者に責任を取っていただきたいものである。

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