若気の無教養に死生観?

 ミトの病状は進み、飛翔も困難になってきた。その姿は、痛々しいので末尾に掲載するが、そのような状態だ。脚の血色も悪くなってきたが、これは全体的にそうなのか、神経を圧迫する腫瘍が肥大して血流も阻害しているのかは、わからない。と言うより、知ったところで仕方がない。
 他人ごとながら、神経を圧迫しての歩行困難事例を知っていたので、「なぜなぜどうしてどうなるの?」と脳内パニックに陥らずに済んだのは、やはり年の功ではないかと思っていたら(ただし、医学的な事実かはわからない。すべては飼い主の主観である)、産経新聞の有料記事で、さだまさしさんのお怒りのコラムを目にした(​「無礼」の時代 「高齢者は集団自決でも」という先生へ​)。

 私の出身校の校是は『礼儀廉恥』で、学生時代、「おまえたちは無礼破廉恥だ!」と散々言われていたこともあり、「無礼」と言われるとドキッとするのだが、そのように指摘された「先生」、1985年生まれの成田悠輔氏は、「ブレイモノ!」では怖気づかないだろうと思う。しかし、賢いのだろうし学識はあるのだろうが、さだまさし氏のご指摘の如く、確かにその発言に教養は窺えない。
 『ウィキペディア』に拠れば、5年ほど前に、
​ 「『葉隠』の「武士道というは死ぬことと見つけたり」という一節を引き合いに、高齢者が老害化しないために「人は適切な時期に切腹すべし」

 と発言されたのが始まりのようだが、古書のフレーズをつまみ出して今現在に当てはめたがるのは、それこそ、成田氏たち、出来る子たちが消えてなくなって欲しい年寄りに多い症状であろう。30代での発症は早すぎますね。
​ そもそも、1990年代には、高齢化が進んで衰退が明らかとされた日本が、経済大国として2014年の今日まで、それなりに存在し続けているのは、​​​牛馬の如く働く無知な年寄り​​​が存在しているからだと、少しでも現場で働けば気づくのではなかろうか。本来、体を動かすべき若者の欠落を年寄りが補ってくれているあの人たちが、万一にも集団自決でもすれば、現場は崩壊して日本は「はい、それまでよ」である。​
 遺憾ながら、現在の4、50代は、現在の6、70代のようには、10年後、20年後には働けない。それは、より小賢しいからであり、滅私奉公などちゃんちゃらおかしいことくらいわかってしまっているからだが、このままでは社会インフラの担い手不足による崩壊は明らかであり、高齢者が支えていてくれた部分を、如何に効率化機械化して凌ぐかこそ、喫緊の課題かと思う。退職後の会社員が無駄飯食いだなどと言っているのは、汗をかく現場の高齢化のすさまじさを知らない、ホワイトカラーと言うより「ブレインホワイト」(今作った言葉。世間知らずのあっぱらぱー、学者バカに多そうなタイプのこと)の繰り言に過ぎまい。
 そもそも、文化的生活を享受する人類において、若者は体を動かすべき存在である。なぜなら、老いれば身体的に不自由になるからだ。例えば、前近代の村社会では、若者は「おとな」と呼ばれる年寄りの指示で動くだけの存在だったが、これは若者がバカだからそうしていたのではなく、年寄りは肉体的に衰えているので、若者が実行部隊で働かねばならなかったからである。おうおうにして、年寄りの経験や知識が必要、といったポジティブな面を評価して指導部が高齢者に限られた、などとされるが、それは嘘である。自然な肉体的な条件で、怪しげなサプリメントのない時代の年寄りは、ごく自然に動けなくなって、そうせざるを得なかっただけだ。
 翻って、現在は、高齢者の多くが肉体労働に励み、昔ながらに頭しか動かせない経営者の年寄りに対し、現場で汗を流した経験のない、つまりは若い頃から年寄りにも出来ることしかしていない者が、社会基盤を支える年寄りの存在も知らずに、「集団自決」などと薦めてしまうのだから、実に滑稽な話でしかない。たんに、頭でっかちの世間知らずとしか見なされないことに気づかなければ、時代の寵児など時代の風で吹き飛ぶだけで、それこそ口先だけの老害になるのが関の山であろう。
 さて、5年ほど前からの発言で、歌い手で詩才に富むさだまさしさんのお怒りまで頂戴することになった成田氏は、「集団自決」発言の意味は、「社会的な引き際の問題」「世代交代」であるとし、「広げれば終末医療や死生観などの生物的引き際」「社会保障と財政の話にまでつながる」と発言されているそうだ(すべてウィキペディア)。
 「集団自決」とか「切腹」などと、その背景も良く考えず調子に乗って過激なフレーズを使った代償が、少々時間をおいて降りかかってしまい、誤魔化そうとしているように聞こえてしまうのは、無惨なものだ。そのような聞き苦しい言い訳の事例は大昔からたくさんあって、多少はモノを考えて生きていれば用心は身に付くので、「亀の甲より年の功」などと経綸、経験が必要にもなるとされ、それが年寄りの強みとなってしまうのだが、図らずも成田氏の「若気の至り」が、若者の未熟を露呈させてしまったのは、老害を忌み嫌う者としては、残念至極と言わねばなるまい。
 人生経験が乏しく未熟で当然の若者でも、情報化社会にあっては年寄り以上の知識を身に付けられるので、物知りな年寄りなど無用の長物と、自分が年寄りになるまでのほんの十年二十年程度の間は、(大昔からそういった事例に事欠かないが)尖っていて欲しかったものだが、たった5年足らずで問題を「広げ」希釈して丸くなるなど、情けない。自分の軽率な過激フレーズで社会に迷惑をかけたと痛感するなら、それこそ武士道では切腹しなければならない。身を全うすることについて、四の五の理屈を言わないのが『葉隠』における、つまり、江戸時代の侍社会における武士道の形式美のはずで、そのような理解もしないでフレーズを使えば、無教養のそしりは免れない。やはり、教養を深めたうえで発言するのが無難だろう。
 さて、人における「生物的引き際」とは、他人に迷惑をかけたくないので死を選ぶ、ことで、私流に言うなら、「自分のケツを拭けなくなったら死んだ方がマシ」となる。そうした考えの実践を許容するのは、自殺の自由を認めることになりかねないのだが(白状すると、電車への飛び込みや高所からの飛び降り自殺で巻き込み事故が起きないように、自殺をしたい者が利用できる公的サービスをつくってしまえば良いと空想したことがある。イメージとしては、受付嬢がいて、「松竹梅とございます」と自殺方法の案内をしてくれて、梅だと首吊りロープのかかったブルーシートの敷かれた小部屋にご案内する、といった具合だ)、危篤状態の生き物を繰り返し見ていると、人とは贅沢で因果な生き物だと思えてくる。
 モノ言わぬ小鳥は、徐々に衰弱してやがて死んでしまう。飼い主が病院に行って納得できる場合なら、いろいろ知らぬところに連れて行かれていじりまわされわけのわからぬまままずい飲み物を強要されなどされた挙句に、死病なら当然死んでしまう。
 自殺など無い。用意された環境の中で生きるのみである。身近な生き物に学ぶべきものは多いようだ。

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